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異邦人のあたまのなか

小説や小説の書き方。本、執筆、ラノベ、アニメを中心に、他に興味あることについて雑多なことを語っていきます。

μ’sの喪失を僕らはどうやって受け止めればいいのか? 処方箋出しておきますね。 ラブライブ!μ’s Final LoveLive!~μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪ ファイナルライブ感想 μ’sから僕らが受け取ったもの 2/2

 

ラブライブ!μ’s Final LoveLive!~μ’sic Forever♪♪♪♪♪♪♪♪♪ ファイナルライブ感想 μ’sから僕らが受け取ったもの 2/2

前回の続編です。

 

outsiderjun.hatenablog.com

 

 

 

 

 

あまりにも大きな、μ’sへの喪失をどうやって考えたらいいかの処方箋を上から目線でなく、ラブライブ!を愛する全ての方と一緒に考えていきたいと思います。

 

 

今回わかっていたことではありましたが、東京ドームから一週間近くたちましたが、それでもラブライブ!μ’sを喪失感がぬぐえないでいます。

 

泣かずに笑顔で送り出したいと思っていても、それは無理な話でした。

 

それだけの勇気と楽しさとそして寂しさ、苦しささえも共有できたからだと思います。

 

ラブライブ!は期間限定のスクールアイドルという異色の設定からはじまったと思っています。これが上手く成功し、ここまで巨大なコンテンツ……いいえ、もはやコンテンツという言い方も失礼で、「生きたもの」になったんだと思います。

 

アイドルの強みとは若さや美しさではなく、苦しさ、つらさ、がんばりを共有できるところだと思います。

 

これは初期のAKB48なども言えることですが、今では知らないことがいないモンスターアイドルになりましたが、昔はオタクの聖地である「秋葉原」の劇場で踊る、売れないアイドル予備軍でした。

 

このあたりはラブライブ!ととてもよく似ています。

μ’sももとは三人で観客がほぼいないなかに、「秋葉原」の音ノ木坂学院の講堂で歌います。

 

 

 

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それがそもそものはじまり。

 

そこからアニメと現実がシンクロしていき、徐々にそれぞれの会場やライブパフォーマンスは上昇していき、やがて共にドゥーーームという最大規模の会場でラブライブ!を行うことができた。

 

僕らはその成長の軌跡を共にしてきた。

いつだって彼女達の苦楽、楽しさ、別れの寂しさ、強さを共有できる。

 

それは親友のような、戦友のようなもの。

アニメ×現実のシンクロによって重層な世界がよりそのことを感じさせる。

 

更に畑亜貴さんの天才的な歌詞による、世界観の補完と拡張がメインとなる歌によって行われ、そらまるがラストライブの休憩中に流れる録画映像でいっていたが、アニソン殿堂、もしくは曲として永遠に残るであろう名曲が何曲もうまれた。

 

私がもうひとつ着目することは、かなりラブライブ!は観客にも一緒に参加することを良い意味で求めてくるんだということ。

 

サイリウムの色をあわせたり、演出、かけ声、振り。慣れるまでは大変だったが、慣れてしまえば、会場のみんなとの一体感や、サイリウムの色の綺麗さ、揃った時の何ともいえない達成感はすごい。

 

μ’s自身も「僕ら」を10人目、もしくは「20人」として見てくれていたのだ。

 

それは東京ドームが私は初参戦だったが、彼女達のパフォーマンス、踊り、歌、お辞儀、お礼の言葉、十分に伝わってきた。

 

だからこそ、辛い。

 

圧倒的な喪失感にさいなまれてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

では、どうやってこの喪失感を受け止めて、前に進めばいいのか。

μ’sの望む、「今が最高!」と共に、嘘いつわりなく叫ぶことができるのか。

 

 

 

 

 

この本たちの知識を使って考えてみよう。

 

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

 

 

特にこちらの「幸せになる勇気」が今回の喪失とどう向き合うかに非常に参考になる。

 

私たちは「自立」をしなくてはならない。それは「依存」や「自己愛」から離れる為だ。

 

以下引用--

「われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます

そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。」引用終わり

 

うーん。ではμ’sを愛し続けることは、アドラー=岸見先生の言うとおり、自己愛からの脱却であり、「自立」につながるから、卒業しなくてもいいのでは? ずっと彼女達を思い続けたらいいのでは?

 

私は一瞬そう考えたが、多分、違うのだ。

 

「幸せになる勇気」には数々の劇薬の言葉がのっているが、その中で「メサイヤ・コンプレックス」というのがのっている。

 

「他者を救うことによって、自らが救われようとする。自らを一種の救世主に仕立てることによって自らの価値を実感しようとする」

 

そういうことらしい。

 

これを「私」とμ’sの関係に置き換えてみる

 

μ’sがどんどん大きくなることによって、頑張ってくれることによって、自らが頑張れないことを彼女たちに託している。自らがファンであり続けることによって、自らはどこか彼女たちの頑張りに依存している」

 

これは「私」の話であって、「僕ら」全ての人にあてはまると思っていない。これは「私」の切実なμ’sを好きな影の部分だ。「私」は彼女たちの「頑張り」に依存している。

 

彼女達は「スクールアイドル」として期間限定としてはじめた。最初から終わることはわかっていた。

 

映画で穗乃果が謎のお姉さんと会うのは、μ’sが自立し、ソロとしてやっていくということ。現実で、声優として、歌手として、それぞれがμ’sを離れ、一人の声優として、自立していくということ。

 

「僕ら」がずっとμ’sにパフォーマンスを望むなら、彼女達18人はそれぞれの道に進むことが出来ない。

 

ファンがずっと見ていたいという欲望は、彼女達の自立を阻むことでもある。

 

別れは力をくれる。

 

人生は別れの連続で、別れる為に出会っている。

 

そもそもラブライブ!とは、えみつんも休憩の時に流れていた録画映像で言っていた。

ラブライブ!はとても現実的な話だ」、と。

  

 

 

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そう。「僕ら」は現実的な話だったからこそ、三年生のメンバーが卒業して脱退することになったら、μ’sを解散する悲しみを共有できたし、エリーチカの妹、絢瀬亜里沙が加入をしないと決めたことも悲しさとどこかどうしようもなさ、のようなものを感じた。

 

ラブライブ!μ’sはとても現実的で、その悲しみや嬉しさを「僕ら」が共有できる。これが大事なところだ。

 

ラブライブ!は「僕ら」が現実で起こる、別れ、嬉しさなどの感情との折り合いの付け方を教えてくれる。

 

だから「僕ら」はラブライブ!μ’sと向き合わないといけない。目を背けることも逃げるとも許されない。共にエモーションを共有した戦友だから。彼女たちが現実そのものなら、「僕ら」は現実と向き合うんだ。

 

 

悲しいけれど、自立を望むμ’sとの別れは必然だ。

彼女達はずっとアニメ、映画で現実で、こちらに問いかけていた。

 

「私たちは先に進むけど、君は、どうする?」

 

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まとめ  μ’sから僕らが受け取ったもの

 

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「僕ら」はμ’sのがんばりやつらさ、喜びを共に共有しているからこそ、ずっと彼女達を見ていたいと思ってしまう。

 

そうすると、彼女たちが卒業できなかったり、声優として更に高みに進むことができない。

 

では、「僕ら」はどうすればいいか?

ここまで長く話してきて、ごめんなさい。

それはそれぞれの問題で、「私」は介入できない。

 

これはアドラーも言っていて、「他者」の問題に介入してはいけない。

 

それぞれがそれぞれに答えを見つける必要がある。

 

だからこれから書くことはμ’sに頑張りを依存する「私」がどうやって折り合いをつけるか、だ。

 

「私」は自らの「頑張れないこと」を彼女達が「頑張ってくれる」ことによって依存していた関係を断ち切り、μ’s18人全てのメンバーの成長とさらなる発展を願っているし、「私」ができる限りの応援をしたい。

 

そして共有した想いを胸に、なにもない私もすこしでも現実と向き合ってよい状態にしていきたい。辛い時はμ’sを思う。彼女達が頑張ってきたことを思い、私も頑張るよ。

 

μ’sとの別れを共有することで私は強くなるだろう。現実も別れが常に待っている。圧倒的喪失の場面も少なからずやってくるだろうし、何度か経験がある。

 

それでも、μ’sと歩いてきた時間が私にはあるから。

なんとか踏ん張ってみる。

 

ここまで思わせてくれてありがとう。

ほんとうに寂しさと悲しさ、そして元気をもらいました。

 

μ’sは形をかえて、残り続ける。音楽も踊りも映像もたくさん残っている。

私はそれをずっと大事に保管し続けるし、ずっと愛し続ける。

 

そして、これからも進み続けるμ’sにおいていかれないよう、過去ばかりふりかえらないように必死で一緒に歩んでいきたいと思う。

 

 

 

「私たちは先に進むけど、君は、どうする?」

 

「私」の答えは決まった。「君」はどうだろうか?

 

 

 

 

最後に今回両日チケットが無かった中、運良くラブライバーさんにチケットを譲ってもらったので、短くその話をしたい。

 

もう終わりは近いから、簡単にすませるとします。

 

BD先行から全てのチケットを落選した私は満身創痍で3/31日を向かえて、そこで共にチケットを求めるAさんと出会い、その人が4/1日のチケットを求めているとのことなので、共同で違う場所でチケットを譲ってほしいという用紙を持って立っていたら、その人のおかげで3/31のチケットを買うことが出来た。

 

異性の名前名義のチケットだったので、入れるか不安だったが、アリーナではなかったからか、なんとか入ることができた。

 

その人が遠方からきていて、泊まる場所がないとのことだったので、家に泊めて上げることにした。そんなことは初めてだった。友人さえ一度もきたことがない部屋に、本名さえ知らない人を泊めるなんて。

 

自分でも信じられないが、その人がチケットをとってくれたことと、ラブライブ!を愛する人だったから、正直迷ったが、泊めてもいいかと思った。同姓の人だ。お互いに4/1もチケットもっていなくて、朝からチケットを求めて街頭に立つことを決めていた。

 

そして、4/1の午前中のたちはじめて3時間ぐらいで、チケットを売ってくれるという人が現れた。昨日はアリーナで10万や、それに近い金額を提示してくる人もいるので、アリーナの席ありますよ、と言われた時に、どうせ10万ぐらいかな。それだと難しいかなって思っていたが、聞くと、

 

とんでもなく安い額を提示された。

 

耳がおかしくなったのかと思った。7時過ぎにはライバルがいなかったが、時間とともにライバルがどんどん増えて、私のもとにも情報を得ようとハイエナのように群がっていたので、自ら価格をつり上げた。そのぐらい安かった。

 

その人が私を選んでくれなかったら、4/1は参加できたかもわからないし、ましてやアリーナ席でなんて見ることはできなかった。

 

その恩人はBさんと呼ぼう。

 

Bさんがチケットを持っているのがわかって、誰に話しかけようかと悩んでいるようなのをいち早く発見した私は、こちらに向かって来るときに、自ら声をかけることができた。

 

私は運がよかった。

ただ、今回はそれも多少は引き寄せることが出来ることを学んだ。

 

そして、アリーナ席というので、すごい額をふっかけてくる人もいたけど、アリーナ席なのに、あまりにも安く譲ってくれるBさんのような方もいた。

 

友人がチケットをとったが、友人がいけなくなってしまったとの事だった。私は申し訳ないがその幸運に感謝し、その友人さんにも感謝した。

 

そしてもし入れなかったら、チケット代を返すし、こんなに高く買ってもらってすみませんと言われて逆に恐縮してしまった。Bさんはアリーナの相場も知っていて、3/31のチケットは韓国から来たラブライバーさんに定価で譲ったらしい。

 

私は今回本当にラブライバーさんに恵まれた。

Aさん、Bさん。そして3/31日にチケットを譲ってくれた方がいなかったら、私は見ることさえできなかった。ほんとうにありがとうございました。

 

あと、東京ドームのスタッフの方、本人確認をしないでくれてありがとうございました。たしかに転売はよくないけれど、買う方はどうしても切実に見たいから大金を出しても買うのであって。なんか上手くそのあたりに折り合いがつく方法が確立されるといいですね。

 

 

思った以上に長くなった。

 

それでは私は絶対にこれで締めたいという言葉をもってして、終わろうと思います。

ラブライブ!μ’s、作った全てのスタッフ様、そしてラブライブ!をここまでにしてくださった、ラブライバーの方、ほんとうにありがとうございます。

 

 

切なくて時をまきもどしてみるかい?

 

 

NO NO NO

 

 

いまが最高!

 

 

 

 

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