ラブライブ!The School Idol Movie 劇場版を見た感想。ストーリーにひっかかりを感じたので、一期・二期を見直して、考えて見た。
ラブライブの映画。すごい人気でしたね。配布グッズはすぐになくなるぐらい。
個人的にはガチラブライバーではなく、アニメから入った人間なので、考察などは他の人にまかせるとして、レビューに徹することにする。
(以下、ネタバレしまくりますのでご注意を)!!!!
アニメ+劇場版を見ての総括とひっかかり
先に全体を見た総括から。私はデレマスとけいおん!(けいおん!はアイドルアニメではないのだが、私は近いものを感じます)のアニメしか見ておらず(アイドルマスターはこれから見ますね!)、詳しいわけではないのだが、素晴らしい出来だと思った。ダンスや曲は可愛く、元気が出る。メンバーのギャグやシリアスのバランスも良く、なにより、矢澤にこと園田 海未はひとつの人類の偉大な発明だと思うぐらい好きになった。
ラブライブは何度も目指す先(目標)を変え、悩み、答えをだす、選択する物語。私にはそのように感じた。それをストーリラインとして貫いたところを高く評価する。特にちゃんとμ'sを卒業させた所。私が創作者であれば、このような構造やストーリーにはしないだろう。だからこそ、私にとってラブライブは素晴らしく挑戦的で、良い作品なのだ。
ただ、自分には物語として貫くがゆえに、良い意味でのひっかかりを感じ、それをなんとか自分の言葉で落とし込めればと考えた。
なぜ、感想を書こうかと思ったか。それはラブライブ映画を見て感動しつつも「ひっかかりを感じた???」から
① なぜ頑なにスクールアイドルにこだわって、終わらせることに注力し、皆の期待(現実の私たち・作品内の学校関係者、アライズ・ミューズのファン達)に答えずに解散したのか。
② なぜ、二期でミューズは解散するといったのに、再び劇場版で答えを出さないといけなかったのか。
③ 海外と日本で会ったシンガーのお姉さんは誰なのか。その時の水たまりはなんのメタファーなのか。
④ 劇場版の「みんなで叶える物語」とは何を意味するのか。
恥ずかしながら初見ではなんとなく今を大切にする為に卒業するのだなぁ、ぐらいしかわからず、ライブ映像もミュージカル部分も素晴らしいのになんか、不完全燃焼で終わった。だからこれらの疑問を中心に脇道にもそれながらも考えていく。
Angelic Angel。よかったなぁ。海未ちゃんが劇場版ギャグパートの変顔キャラから一変して、美しく描かれ、えっ!誰っ、この美少女ってなる(笑)
高坂 穂乃果がこだわった「スクールアイドル」と「アイドル」の違い。
映画で、理事長や音ノ木坂学院のクラスメイト。A-RISEのメンバーや作品内のファンたちから、強い継続を希望されたμ'sのリーダーの穗乃果は悩む。
このままアイドルを続けるべきか、と。
ここで私はだいぶ時間が空いてしまってうろ覚えになってしまっている一期と二期をまじめに見直して、なんとノートにメモをとりながらまとめることにした。
そして劇場版で何度も穗乃果が自らに言い聞かせるようにいっていた、「私たちはスクールアイドルにこだわりたい」という意味を深く理解するために、スクールアイドルとアイドルを明確に定義する必要があると感じた。
一期と二期を見直した中で、矢澤にこがアイドルとは何か、というものを口にしている。
二期の11話でのにこが「アイドルは続けなさいよ。メンバーの脱退があっても名前を変えずに続けていく。それがアイドル。そうやって名前を残す」ということを言っている。
にっこにっこにー
つまり「スクールアイドル」とは、学校に在学中の短い時間を、仲間達といっしょに活動し、メンバーの卒業とともに解散するという感じか。
そして「アイドル」とは年齢や期限を区切らず活動するという意味だと思われる(これはラブライブの世界での話で、実際は卒業はあるし、解散もあるが、わかりやすいようにそれは含めない)
そしてA-RISEは「アイドル」を選び、ミューズは「スクールアイドル」を選んだ。順当に考えて、劇場版ほどの人気が出たら、普通はそのまま続けようとおもうのではないかと私は思った。しかも、メンバー達の仲が悪いとか、誰かが海外などの遠くにいって、実質的な活動が不可能になるわけでもない。ガチラブライバーなら、答えが出ていて、何をニワカがいっているのだ、と思われるかもしれないが、私はここが気になった。どうしてそこまで、解散を望むのか。
高坂 穂乃果とμ'sメンバーはどうして「スクールアイドル」にこだわらないといけなかったか。
ここで更に疑問に感じたことから。すでに二期で答えが出ていた、解散するということをどうしてもう一度考え直さなければならないのかということ。
① 映画で海外にいってスクールアイドルが取り上げられ、有名になり、ラブライブ大会優勝者となったμ'sはメタの世界(現実の世界のラブライブファン)からも劇中世界からも二つの世界からやめないでほしいという期待が高まってしまった。
② 二期の段階で解散はμ'sだけの問題だったが、ファンにも説明する必要が出てくるほどに、大きな存在になってしまった。(これも現実と劇中どちらも含む)
これらの理由により、再び映画にて「スクールアイドル」について悩まないといけないことになったのだと推測されます。そして、ここで、「スクールアイドル」にこだわる、新たな理由の提示がなかったことが、私にとっては穗乃果(というか、μ'sの総意)の選択が少々わかりにくかったのです。だから、一期と二期を見直して、いっしょにそれを思い出すことにしました。
※私は個人的にラブライブをかなりメタ的な作品だと思っているので、それを前提に読んでくださるとわかりやすいと思います。二期の12話の屋上シーンでも「みんなー明日も精一杯歌うから、聞いてねー」と夜景の街に向かって穗乃果が叫ぶシーンは観客(私たち)に向かっていますし、そういった描写は随所に見られます。
二期の屋上の画像。
話を戻します。スクールアイドルにこだわらないといけない理由です。
そもそもラブライブとは高坂 穂乃果が「学校の存続」をするために南 ことり、園田 海未と共にはじめたスクールアイドル活動なのです。
他のスクールアイドルは、学校に所属しつつ、アイドル活動を行う存在であるのに対し、μ'sはもう一つ重要な「学校存続」という、かなり重たい目標をもってはじまったのです。
この点からもラブライブというのは他のアイドルアニメ・コンテンツから見て、異質なのではないかと思います。私はその点を高く評価しています。
話を戻します。
ラブライブは一期で学校存続をかけて行動を目的とし、12話で存続が決定し、ラブライブ出場がなくなると、南 ことりの留学騒動を経て、穗乃果は歌が好きだから、スクールアイドルをやりたいことを伝えます。
ラブライブは何度も目指す先を変え、悩み、答えをだす、選択する物語。
二期はラブライブ優勝とμ'sの解散の話がメインでした。
スクールアイドルにこだわる第一の理由は、そうやっていっぱい練習し、もめて、褒めて、泣いて、戦った仲間。そして、その初期の目的は「学校存続」です。そんな夢のようなメンバーが脱退し、高坂 雪穂や絢瀬 亜里沙の妹達が入ってくることを望まなかったのは理解できます。
第二の理由は、絢瀬 絵里(エリーチカ)と穗乃果が生徒会長だったこと。いや、生徒会長だったことが重要ではなく、「学校の行事に積極的に参加」していたということ。あくまでも穗乃果やエリーチカにとってアイドルというのは学校存続の手段でしかなく、両親の思い出がからむ、学校を守りたかったのです。少なくとも最初は手段でしかなかったのが、アイドル活動を通して、μ'sは信頼を深め、学校から仲間達とともにラブライブ優勝する目的へとシフトしていきます。
見過ごしそうな点ですが、アイドルというのが手段になっている点からも、やっぱりこの作品の異質さは際だっていて、一期の12話からのことりのごたごたを通じて、もう一度、スクールアイドルを見直すという複雑な構成になったのだと思います。
まとめると、苦楽をともにした、最高のメンバーといっしょに、アイドル活動した場所である学校(卒業)を切り離すことが出来なかった。絆がうまれたメンバーの変更などありえないし、「アイドル」(延長)の世界にいくことを「選ばず」、「スクールアイドル」(期間限定)を「選んだ」ということです。多分。
このような異質なはじまりとメンバーだからこそ、私が当たり前のように思っていた、普通のアイドルならいちばんに考える顧客の満足(劇中と現実のファンのミューズを永遠に見ていたいという欲望)を「選ばない」という選択が出来たということです。
ここで、現実のアイドルを思い浮かべました。学業や他のやりたいことを見つけて、卒業していくアイドルのことを。それは自分の為でもあり、ファンの為でもあるのです。自分の目指す道を見つけて、それと向き合わないまま、ファンにパフォーマンスすることは嘘になってしまいます。次の道が見つかったら、そこに向けて進まなくてはいけない。更にそこにμ'sのメンバーをなによりも優先したいという思いが合わさっての主体的な選択の結果、ミューズは「スクールアイドル」を選択したといえます。
だからといって観客(現実と劇中のファン)を無視しているわけではありません。ラブライブの作品自体がメタ的なので、あまりμ'sのファンについて、メンバーがどう思っているかは発言されていません。矢澤にこから一般的なアイドル論が出たり、A-RISEがアイドルを選んだ際に自覚的にそれはファンの為でもあると伝えています。
μ'sにとって現実のファンはメタ。つまり、テレビ画面で今見てもらっていることを自覚しているようなつくりだと感じます。だから、そんな当たり前のことに発言する必要がないのです。観客を大事にしないメンバーが、あれだけのパフォーマンスを発揮することはないし、死ぬもの狂いの努力もしない。たしかにそれは学校存続やラブライブ出場、そして優勝に向けられているように見えましたが、それを含めてのメタ的な私たちに対するパフォーマンスなのです。いちいち、「私たちは(μ's)私たちを見てくれるファンに対して、命をかける、なんてことを言わなくても、今までの私たちの行動を見てくれているよね」っということ。
それに二期で「μ'sは解散する」といって劇場版で再び悩むのは、影響力が増した
μ'sは観客の期待に応えなくてはいけないのではないか、という迷いであり、それはここまでいっしょにμ'sや学校生活をいっしょに見てきた顧客に対する純粋な想いであり、それでもなお、メンバーをいちばん大切に考え、限られた時間の中でのスクールアイドルをやる、ということを主体的に選んだ、ということです。だから、劇場版で再び、スクールアイドルとは何か、自分はどうするべきか、を問い直さねばならなかったのです。
ああ、なんて自由なんだっ、と感じました。薄汚れた自分にはファンをいちばんに考えることしか頭になかったのに、穗乃果やμ'sのメンバーはそれを飛び越えて、μ'sを選びます。西木野 真姫が海外から帰国後、ファンがスクールアイドルじゃなくてもいいから、μ'sを続けてほしいという内容を聞いて、メンバーが解散するのだから、μ'sが解散するって思わないのかな、と劇場版でいいます。「私たちがスクールアイドルかアイドルかどうかは、みんなには関係ない」
そう。私たちはずっときらきらした彼女達を見ていたい。でも彼女達は限られた時間の中でアイドル活動をしているわけです。私たちがファンとして、μ'sにアイドル活動を強いるのはある種の束縛にもなっている。それらのジレンマとしての答え。物語としても納得の選択でいいなぁ、と思いました。
長くなりました。そろそろまとめに入っていきますので、もう少々おつきあいください!
③ 海外と日本で会ったシンガーのお姉さんは誰なのか。その時の水たまりはなんのメタファーなのか。
この辺は想像でしかないので、さらりと。
こちらによると、未来の穗乃果説が有力とのこと。他のサイト様でもそのようなことが。私も二回目に見たときにそうではないかと思いました。目の色がいっしょで、そのシーンが何回かありましたもの。
後はメンターみたいな存在なのでしょうか。μ'sがグループであり、この女性はソロ。そして、グループからソロになったことを考えて、穗乃果の未来の姿って説は有力かなぁ、と思います。この辺はあまり面白い意見がいえそうにないので、次の水たまりにうつります。
水たまりはμ'sであり、スクールアイドルであり、観客の期待(束縛でもある)なのでしょうかね。それらにこどもの時に一度足を取られるところは、映画後半の穗乃果のスクールアイドルか、アイドルとして続けるか悩む伏線でもあったのかなぁといった所。その部分にからんでくるお姉さんはやっぱり未来の穗乃果っぼいですね。
この人がいなくても、話は成り立つと思うのですが、とてもドラマティックですし、最後にふれる、「夢」の部分にも関わってくるので、個人的には好きなシーンです。
④ 劇場版の「みんなで叶える物語」とは何を意味するのか。
これは私たちラブライブファンと劇中のμ'sファン。そしてμ'sの夢を叶えるってことだと思います。2期の最終話で、穗乃果が「叶え、みんなの夢」とラストに言います。それは、「少しでも長く、きらきらしたμ'sを見ていたい」と言うこと。残念ながら、三者の利害が一致するのが、これだけなのです。それぞれの利害が違うからこそ、ドラマが生まれるし、それが合わさった時にすごい力を発揮する。
これにより、劇場版とはμ'sが演じるボーナストラックだと考えることが出来ます。劇中で何度も「これは夢?」というメタ発言が出ます。夢の話でもあるということです。それによりミュージカル要素や、前後のつながらない構造や、ソロシンガーのお姉さんのこともなんか納得できる気がしませんか。
ここまで読んでくださってほんとうにありがとうございます。まとめます。
劇場版はファンに対するμ'sなりのおまけなのです。二期のラストは絶対に卒業式でなければなりませんでした。μ'sにとってμ'sこそがいちばんである限り、私たちのずっと永遠にμ'sの活躍を見ていたい欲望とは卒業しないといけません。あの卒業式はファンの、μ'sからの卒業式でもあったのですから。でもその先が見たい。しょうがないな。ちょっとだけだよ。今まで応援してくれたお礼。それを劇場版では共に頑張っていた、今という限られた時間を生きるスクールアイドルと共にアキバでライブをして恩返しします。
そしてラストのライブでは、観客は写っていません。それはμ'sがμ'sを選んだ演出です。でも、私はここまでのラブライブを見て、観客が無視されたとは思いません。「えっ。だって今、映画館(画面)で私たちの歌と踊りを見てくれているでしょう?」そのように感じるのです。あまりにも当たり前にいるからふれない。でもそこにいる。あのラストライブは私たち、ファンが見てくれていることがわかった上での演出だったのではないかと思います。
二期11話で真姫はにこに向かって、「アイドルは続ける。でもミューズは、9人は私だけのものにしたい」と言います。絢瀬 亜里沙は「ミューズには入らない。ミューズの9人が好き。みんなでいっしょに進む姿が好き。そこに私はいない」といいます。
私たちが愛するμ'sに出来るのは、たった一つ。永遠に彼女達をみたいという欲望を抑え、ここまで楽しませてもらった彼女達の限りある活動の記録を、ずっと覚え、μ'sの10人目だと思っていた自分を卒業させることです。ここまでの強い思いを感じされてくれて、それでもなお、卒業させてくれたラブライブを私はとても愛しています。
参考サイト様
アイドルはなぜ魅力的なのか? あるいは、劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか。: \(^ω^\Ξ/^ω^)/
ラブライブ!The School Idol Movieの狂気〜嘘が現実を乗り越える物語〜 - WebLab.ota
劇場版 ラブライブ! 2度目の感想:やっと理解できた ミュージカルアニメとしての凄さ - アニメとスピーカーと‥‥。
画像、参考サイト様、使わせて頂きました。ありがとうございます。ここまで読んでくださった方、そしてラブライブを作ってくださった制作の方に心よりお礼申し上げます。 (了)
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